仕切り  仕切値  自己玉  しこり玉  下押す  下支え  下値  下値追い  市中相場  確り  実需  仕手  指定倉庫  仕手相場  地場  地場筋  指数  指標  充用  需給相場  順鞘  証拠金  上場  上場商品  上伸
為になる先物取引「仕切り」
ポーランド侵攻では約65,000人のポーランド兵士が戦闘の犠牲となり、約680,000人が捕虜にされた(そのうちドイツ軍はとソ連軍はそれぞれ少なくとも420,000人、240,000人を捕虜にした)。ポーランド将兵のうち約120,000人はルーマニア橋頭堡と呼ばれる地域を通って当時中立国であったルーマニアとハンガリーへ脱出し、約20,000人はラトビアとリトアニアへ脱出した。脱出に成功した将兵の大多数は最終的にフランスやイギリスへ渡った。ポーランド海軍艦艇のほとんどはイギリスへうまく抜けることに成功した(北京作戦Plan Peking)。ポーランド軍に対してドイツ軍の犠牲は比較的少なかった(戦闘での死者数は約16,000人と見積もられている)。しかしその一方でポーランド侵攻作戦に参加した戦車などのドイツ軍装甲戦闘車両の30%以上が失われたのも事実で、これが理由でドイツは西欧諸国へ即時攻撃する計画を放棄せざるを得なかった。 ドイツ、ソ連、ポーランドの西側同盟諸国のどの国も、ポーランドで行われた戦争が規模においても被害においても第一次世界大戦を凌駕する大規模な戦争につながるとは予想していなかった。1939年の段階ではドイツの戦争準備は充分に整っておらず、ヒトラーはフランスなどの西側諸国を攻撃しようとはしていなかった。ヒトラーがイギリスとフランスとの平和交渉がもはや無益だと判断するまでは数ヵ月かかった。日本がヒトラーと同盟してアメリカを攻撃したり、ソ連とアメリカがヒトラーと日本に対抗する同盟を結んで外為 と太平洋それぞれにおける戦争が結合し本当の世界大戦にまで発展するのは何年も先の話だった。1939年当時の政治家や将軍たちには見通せなくても歴史的にみれば明らかなことは、このポーランド9月戦争(ポーランド侵攻)こそがヨーロッパにおける第二次世界大戦の始まりであり、それが1937年に始まった日中戦争や1941年に始まった太平洋戦争と結びついて、後に本当の意味での第二次世界大戦として知られるようになった大戦争に発展していったことである。 9月1日にポーランドが侵略されたことを受けてイギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告したが、これはドイツのポーランド侵攻に対して直接兵を送ることをせず、また、ドイツ西部国境を犯すこともせず、人はこれをまやかし戦争と呼んだ。ポーランド人の多くは自分たちが西側同盟諸国に裏切られたのだと感じた。一方ポーランドは同盟諸国に対する自らの義務事項を遵守し国家としては決して降伏せず、フランス(のちにイギリス)に不動産 政府(ポーランド亡命政府)を樹立した。このポーランド亡命政府は、1939年以前の政府の法的な継承者で、ポーランドに残された人々による民間の、あるいは軍事的な地下組織(ポーランド秘密国家)と連携した。ドイツ占領下におけるポーランド人は、第二次世界大戦におけるすべてのドイツ占領地域のなかで最も強力で、最もよく組織された抵抗勢力として戦いつづけた。つまり、アメリカとソ連がドイツに対する戦争に加わるまで、ポーランドは自国領が占領されながらも連合国のなかでは3番目に大きな軍事力を保持していたことになる。 ポーランド侵攻は東ヨーロッパにドイツ民族の「生存圏」を確保するというヒトラーの東方植民地化計画(Generalplan Ost)の最初のステップであった。当時はまだ不完全であったにせよ電撃戦の原型となった戦術は住宅地を破壊し、まもなく民間人と戦闘員の区別がつかなくなった。続いて行われたポーランド占領(ヴァルテラント帝国大管区、ダンチヒ‐西プロイセン帝国大管区、東プロイセンの一部、東オーバーシュレジェン、ポーランド総督府に分割統治)は第二次世界大戦における最も残忍な出来事となった。 ポーランド総督府以外のドイツ占領地域は全てドイツ本土に編入され、それらの地域に住んでいたポーランド人の多数が着の身着のまま総督府領へと追放された。一方、ドイツとソ連で交わされた住民交換の約束に従って、バルト海沿岸地方(バルト三国)、ガリツィア、ベッサラビアに住んでいたドイツ人はこれらの地域から立ち退きを強制された。約400,000人のドイツ人がドイツ領に編入されたポーランドに移住させられた。対照的に、戦後はポツダム協定に従って、オーデル・ナイセ線より東に住んでいたドイツ人は連合国によって新しく決められたドイツ領に追放された。ドイツ人はポーランド領に残ることも選択できたが、その場合はポーランドの共産主義政府によって全ての私有財産を没収され、改めてポーランド住民としての承認を受けなければならなかった。戦前にポーランド市民だった約2,700,000人のドイツ人(Volksdeutsche)はドイツ占領下では「ドイツ民族度」に従って4つのカテゴリーに分けられ、「民族リスト」(Volksliste)に記載されて取り扱われたが、戦後、この「ドイツ系ポーランド人」のうちポーランドに残った者はポーランドで国家反逆罪に問われ裁判を受けなければならなかった。 ドイツによるポーランドFX 中にポーランド人は抵抗組織で活動するとかユダヤ人をかくまうとかいった反ドイツ的行為のほか、許可なく家畜を飼うなどの微罪でも即座に死刑(ほとんどの場合発覚次第その場で銃殺)となり、最終的に600万人のポーランド人(ポーランド全人口の20%)が殺害され、そのうち300万人はアウシュヴィッツなどの絶滅収容所で大量虐殺されたといわれている。 また、1940年の夏にAB行動が行われた。これは前年の1939年8月から10月に行われたタンネンベルク作戦と同じようにして、ドイツ占領下のポーランドでポーランド人の社会的指導層や知識層に属する人々を殺害する作戦であり、結果的にポーランド民族を文化的に無力化することを最終目標とした。これによって約30,000人が逮捕され、そのうちほぼ7,000人が即座に殺害され、残りは各地の強制収容所に送られた。 タンネンベルク作戦もAB行動も、ドイツ新領土からのポーランド人追放とともに、ドイツ東方における民族浄化計画である東方植民地化計画の一環でポーランド民族に対して行われた事件の例である。 一方、1939年から1941年にかけてのソ連によるポーランド占領でも、180万人ものポーランド市民が殺害されるか国外追放された。NKVDによって共産主義体制にとって危険分子であると判断された人々はすべて、ソヴィエト化教育を受けるか、シベリアなどに移住させられるか、労働収容所(グラーク)に収監されるか、または殺害の対象になった。ナチス同様、ソ連側も「反逆分子」に対して情け容赦しなかった。ソ連の支配に反抗するとその人物も含めて家族全員がNKVDに逮捕された。国内で大粛清を推し進めたスターリンはかつてのポーランド・ソビエト戦争の敗北でポーランドへかねてから雪辱を果たす機会を狙っていた。カティンの森事件はポーランド軍将校が虐殺された事件の一つである。ソ連の残虐行為は1944年にポーランドが赤軍によって「解放」された後、再び始まった。戦争の間ロンドン亡命政府の指揮下で抵抗活動を続けてきた国内軍(Armia Krajowa、略称AK)の兵士に対する迫害や、国内軍将校の処刑がソ連によって行われた(モスクワにおける「16人裁判」)。 ポーランド侵攻に関しては、現在までも一般に流布しているいくつかの誤解がある: 対戦車砲で敵戦車を攻撃するポーランド軍第10騎兵旅団の歩兵 ワルシャワのポヴォンズキ墓地にあるポーランド兵士の墓「ポーランド軍はとても後進的で、ドイツ軍の戦車に騎兵で突撃をかけた。」: ポーランドは11個の騎兵旅団を有し、騎兵隊はエリートと扱われていたが、当時はドイツ軍やソ連軍など他の軍隊でも騎馬部隊が編成され、馬はどの国でも広く使用されていた。ポーランド騎兵隊(Kawaleria)にはたとえば「槍騎兵連隊」などの名称がついているが、実際のところそれらの部隊には75ミリ野戦砲、軽戦車、偵察用豆戦車、37ミリ対戦車砲、40ミリ対空砲などの近代的で実践的な兵器が装備されており、ドイツ軍の戦車、塹壕歩兵、砲兵に対しては馬で肉薄するいわゆる「騎兵突撃」をかけたことは一度もなかった。ポーランド騎兵隊の騎馬隊は通常、ドラグーン(竜騎兵)のような機動歩兵部隊または偵察部隊として活躍し、突撃攻撃は地上の歩兵に対してのみ稀に行われた。たとえば9月9日、北部の2つの街リプノとファストゥフの間で、街道の村々に放火しながら移動していたドイツ軍歩兵大隊の隊列に側面の丘の上から「スヴァウキ」騎兵旅団に所属する第1槍騎兵連隊と第3軽騎兵連隊が味方の機銃掃射による支援を受けながら突撃をかけ、すばやく肉薄してサーベルとランスで戦い、混戦の中銃剣で応戦する敵を大混乱に陥れ、このドイツ軍歩兵大隊を降伏させた。逃げるドイツ兵は同騎兵旅団に属する第2槍騎兵連隊が追撃した。この戦いでポーランド軍は3人の犠牲者を出したが、古くから伝え聞く「ポーランド騎兵の突撃」を実際に目の当たりにして恐怖のためにほとんど発狂していたドイツ兵200人を捕虜にした(ドイツ兵にはかなりの犠牲が出た)。